導入:世界を騒がせた「#TheDress」の謎
2015年、一枚のドレスの写真がインターネット上で世界中の人々を巻き込む議論を巻き起こしました。それが通称「#TheDress」と呼ばれる画像です。このドレスは、ある人には「白地に金の飾り」に見え、別の人には「青地に黒の飾り」に見えるという、驚くべき現象を引き起こしました。

なぜ同じ画像を見ているにもかかわらず、人によって色の見え方がこれほどまでに異なるのでしょうか?この長年の謎に対し、埼玉大学と近畿大学の研究チームが、最新の人工知能(AI)技術であるDNN(深層学習モデル)を用いて、その個人差の要因を解明する画期的な研究成果を発表しました。本研究は、知覚科学のオンライン学術誌「i-Perception」に2025年11月5日に掲載されています。
「#TheDress」錯視とは?なぜ人によって見え方が違うのか
「#TheDress」は、物体の色が照明の光の反射によって見えるという原則に基づいています。しかし、写真として見る場合、私たちはその写真の構図から「どのような照明の下で撮影されたのか」を無意識のうちに推定し、その推定に基づいて物体の色を判断します。この照明光の推定に個人差が生じることが、「#TheDress」の色の見え方の個人差の大きな要因だと考えられてきました。
具体的には、ドレスが明るい照明の下にあると推定する人は「青/黒」に見えやすく、暗い日陰のような照明の下にあると推定する人は「白/金」に見えやすい傾向があります。しかし、この「推定の個人差」がなぜ生じるのか、その根本的なメカニズムはこれまで十分に解明されていませんでした。
「ブルー・バイアス」が鍵?日常経験が視覚に与える影響
研究チームは、この「#TheDress」の個人差の背後にある要因として、「ブルー・バイアス」という現象に着目しました。ブルー・バイアスとは、晴天時の日陰にある白い物体が、青空の光を反射して青白い光として目に入るにもかかわらず、私たちの経験によって「これは白い物体だ」と学習し、青白い光を白いものとして解釈する傾向のことです。
このブルー・バイアスは、私たちが日常生活の中で様々な光の環境に触れる経験を通じて獲得されるため、個人差が大きいことが知られています。もし、このブルー・バイアスが強く作用する人であれば、「#TheDress」の青白い部分を「白い」と解釈し、「白/金」に見える可能性が高まると予想されます。しかし、この経験に基づく視覚の個人差を実験的に操作して検証することは、人間を対象とした研究では非常に困難でした。
AI(DNN)が錯視の個人差をシミュレート:画期的な研究手法
この実験的な困難を克服するために、研究チームはDNN(深層学習モデル)と呼ばれる人工知能の計算モデルを利用しました。DNNは、人間の脳における多段階の情報処理を模倣した多重の層構造を持つ、現代のAIの基礎となる技術です。
研究では、pix2pixというDNNモデルの一種を使用し、入力された画像を日本語の19色の基本色に直した画像として出力するように機械学習を行いました。これは、人間が画像を見て色を色名で答える状況を模倣するものです。
この学習プロセスにおいて、研究チームは「ブルー・バイアス画像」と呼ばれる、青空の下に白い被写体がある構図の画像を含める比率を、0%から50%まで10%刻みで10段階に変化させて、合計10種類のDNNモデルを作成しました。重要な点として、この色名付けの学習の際には「#TheDress」画像は一切使用していません。学習が完了した後のテスト段階でのみ、「#TheDress」画像が各モデルに入力されました。

研究成果:ブルー・バイアスと「#TheDress」錯視の関連性
実験の結果、ブルー・バイアス画像の学習比率が0%から50%までの間で段階的に「#TheDress」画像に対するDNNモデルの出力が変化することが明らかになりました。ブルー・バイアス画像の比率が低いモデルは「青/黒」としてドレスを出力し、比率が高まるにつれて徐々に「白/金」へと変化していったのです。
この結果は、私たちがブルー・バイアスに関わる情景、つまり青空の下で白い物体に着目する機会にどれだけ接してきたかによって、ブルー・バイアスの個人差が生じ、その結果として「#TheDress」の色の感じ方の個人差が生じる可能性を強く示唆しています。DNNモデルが、人間の視覚経験に基づく色の見え方の個人差をシミュレートできたことは、この錯視のメカニズムを理解する上で非常に大きな進展と言えるでしょう。
今後の展望:計算モデルが解き明かす脳の秘密
計算モデルを用いる最大の利点は、人間を対象とした研究では不可能な、極端な環境での学習やモデル内部の「解剖」といった実験手法が実施できる点にあります。今回の研究では、極端な環境での学習によってブルー・バイアスの個人差をシミュレートしましたが、今後は計算モデルの内部をさらに深く分析し、ブルー・バイアスによって生じる情報表現の違いを解読することが試みられます。
このような研究を通じて、人間の脳内におけるブルー・バイアスの情報表現についての手がかりが得られると期待されています。そして、得られた手がかりを元に、脳機能計測などの手法を組み合わせることで、人間の脳内における複雑な色情報処理のメカニズムについて、さらなる解明が進められる予定です。
本研究の意義と社会への影響
本研究は、「#TheDress」という身近な錯視現象の個人差の要因を、AIという最新技術を用いて科学的に解明した点で大きな意義があります。これにより、私たちの視覚がどのように日常経験によって形成され、個人差が生じるのかという知覚科学の根源的な問いに対し、具体的な計算モデルに基づく説明が提示されました。
また、人間が直接操作できない「経験」という要素を、AIモデルを介して再現・分析する手法は、認知科学や神経科学の分野において新たな研究アプローチを切り開く可能性を秘めています。将来的には、視覚認知の個人差を理解することで、よりパーソナライズされた情報提示システムや、特定の視覚障害へのアプローチなど、幅広い分野への応用が期待されるでしょう。
用語解説:AI初心者のための基礎知識
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#TheDress画像:2015年にSNSで話題となった、見る人によって色が「白/金」または「青/黒」に見えるドレスの写真。視覚の個人差の象徴として広く知られています。
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DNN(Deep Neural Network):ディープニューラルネットワークの略。現代の人工知能(AI)の基盤となる計算モデルで、人間の脳の神経回路を模倣した多層構造が特徴です。大量のデータからパターンを学習し、認識や予測を行います。
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ブルー・バイアス(blue bias):晴天時の日陰で、青空の光を反射して青白く見える白い物体を、経験的に「白いもの」と知覚する傾向のこと。個人差があることが知られています。
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機械学習:AIの一分野で、コンピューターがデータから学習し、特定のタスクを遂行する能力を向上させる技術。本研究では、計算モデルに画像と正しい色名のペアを与え、その誤差が小さくなるように最適化する手順が用いられました。
論文情報と研究支援
本研究の成果は、以下の学術誌に掲載されています。
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掲載誌:i-Perception(オンライン、オープンアクセス)
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題名 :Can DNN models simulate appearance variations of #TheDress?
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著者 :栗木一郎・斎藤輝・大久保類・清川宏暁(埼玉大学)・篠崎隆志(近畿大学)
本研究は、科学研究費補助金(科研費)「DNNの解剖による#TheDressの脳内メカニズムの解明」(課題番号:21K19777、研究代表者:栗木一郎)の補助を受けて実施されました。
関連情報
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近畿大学情報学部 情報学科 准教授 篠崎隆志氏の紹介ページ
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近畿大学情報学部

