AI(人工知能)の進化は目覚ましく、私たちの生活やビジネスのあらゆる側面に浸透しつつあります。AIがその能力を最大限に発揮するためには、膨大なデータの収集と分析が不可欠です。しかし、その一方で、個人情報や企業の機密情報といったデリケートなデータを扱う際には、プライバシー保護やセキュリティの確保が極めて重要な課題となります。データ活用とプライバシー保護という、一見すると相反する二つの要素を両立させる技術として、今、「秘密計算AI」が大きな注目を集めています。
AI時代の新常識:秘密計算AIとは何か、なぜ今必要とされるのか
現代社会は、スマートフォン、IoTデバイス、クラウドサービスなどから日々膨大なデータが生成される「データ駆動型社会」へと移行しています。これらのデータをAIが分析することで、新たなサービス開発、業務効率化、病気の早期発見など、多岐にわたる価値が生まれています。しかし、このデータ活用の恩恵を享受する一方で、データの流出や不正利用といったリスクも増大しています。
特に、個人情報保護法やGDPR(一般データ保護規則)といった法規制の強化により、企業は顧客データの取り扱いにこれまで以上に慎重さが求められています。データを活用したいが、プライバシー侵害のリスクは避けたい――このようなジレンマを抱える企業にとって、秘密計算AIは非常に魅力的な解決策となり得ます。
秘密計算AIとは、データを暗号化した状態のままでAIによる計算や分析を行う技術の総称です。これにより、データの内容が第三者に知られることなく、安全にAIを活用することが可能になります。例えば、複数の企業がそれぞれ保有する顧客データを持ち寄り、互いのデータを公開することなく、共通のAIモデルを学習させたり、分析結果を得たりするといった応用が考えられます。これにより、これまでプライバシーの壁によって実現できなかった、新たなデータ連携や共同研究の可能性が広がります。
完全準同型暗号(FHE)が拓くプライバシー保護の新時代
秘密計算AIを実現する中核技術の一つが「完全準同型暗号(Fully Homomorphic Encryption、略してFHE)」です。FHEは、暗号化されたデータを一度も復号することなく、そのまま演算処理を行えるという画期的な暗号方式です。これは、例えるなら、中身が見えない箱に入ったリンゴを、箱を開けることなく数えたり、他の果物と混ぜたりするようなものです。
従来の暗号技術では、データを計算処理する際には一度暗号を解除(復号)する必要がありました。この復号された状態が最もセキュリティリスクが高い瞬間であり、悪意のある第三者によってデータが盗み見られたり、改ざんされたりする可能性がありました。しかし、FHEはデータが常に暗号化された状態を保つため、このようなリスクを大幅に低減できます。機密性の高い医療データや金融データ、個人の行動履歴など、絶対に外部に漏らしたくない情報を安全に活用できる次世代の計算基盤技術として、世界中で研究開発が進められています。
FHEは非常に強力な技術である一方で、大きな課題を抱えていました。それは、暗号化された状態での計算処理が、通常のデータ処理に比べて莫大な計算負荷を伴うという点です。これにより、現実的な時間で処理を完了することが難しく、実用化の大きな壁となっていました。この課題を克服し、FHEを高速化することが、秘密計算AIの社会実装に向けた鍵となります。
EAGLYSとEmotionXが挑むFHE高速化の共同開発
このような背景の中、EAGLYS株式会社とEmotionX株式会社は、FHEを用いた秘密計算アプリケーションの高速化に関する共同開発契約を締結しました。この共同開発は、これまでキオクシア株式会社で進められてきたFHE高速化に関する研究成果がEmotionXに移管されたことを受け、その活動を継承・発展させる形で進められます。
EAGLYSは、AIと秘密計算を組み合わせたPrivate AIプラットフォームを提供する企業として、秘密計算アプリケーションに関する深い知見と、そのソフトウェア技術を有しています。同社は「世の中に眠るデータをつなぐハブとなり、集合知で社会をアップデートする」というビジョンの下、様々な顧客のAIおよびデータコラボレーションを促進しています。
一方、EmotionXは、キオクシア株式会社からカーブアウト(事業分離独立)して設立されたスタートアップで、完全準同型暗号(FHE)の高速化技術を中核としています。特に、FHE処理に特化した専用ハードウェア(FPU:FHE Processing Unit)の企画・開発を通じて、ハードウェア面からの高速化に注力しています。
この共同開発では、EAGLYSが持つ秘密計算アプリケーションの知見やソフトウェア技術と、EmotionXが展開するFHE高速化のハードウェア技術を組み合わせることで、ソフトウェアとハードウェアの両面からFHEの実用化を大きく前進させることを目指します。暗号化されたままのデータに対するAI処理を、現実的な性能水準で実行可能とすることにより、AI時代のプライバシー課題に向けた新しい次世代計算基盤を垂直統合型で確立することを目指しています。

秘密計算AIの実現に向けた具体的なロードマップ
両社が目指すのは、単なる技術開発に留まりません。本共同開発では、FHEの最大の課題である演算負荷の大きさを克服し、世界最先端水準の計算精度と処理性能の両立を目指した高速化アーキテクチャの検証および性能評価を進めます。これにより、秘密計算の実装可能性をソフトウェアとハードウェアの両面から大きく引き上げることを目指しています。
共同開発の成果は、今春リリースが予定されているプライバシークラウドサービスに段階的に反映されていく予定です。まずは技術検証やPoC(概念実証)を通じて、以下のようなデータベースにおける演算処理が実用的な性能水準で実行可能であることを確認します。
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類似度計算: 顧客データや製品データの類似性を分析し、パーソナライズされたレコメンデーションやターゲット広告に活用。
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スコアリング: 金融機関での信用スコア算出や、リスク評価など、様々な分野での数値化された評価に利用。
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信用判定: 個人情報を用いた与信審査や、企業間の取引における信用度評価を安全に実施。
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不正検知: 金融取引における不正利用や、サイバー攻撃の兆候などを暗号化されたデータから検知。
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閾値判定: 特定の基準(閾値)を超えるデータや、特定の範囲内のデータを抽出するなど、条件に基づくデータフィルタリング。
将来的には、暗号化状態のまま大規模データを対象としたニューラルネットワーク(深層学習モデル)の学習および推論処理を可能とする基盤の確立を視野に入れています。これが実現すれば、例えば、医療機関が保有する患者データを、個人情報を特定することなく共同で学習させ、新たな診断支援AIを開発するといった、画期的な応用が期待できます。
データ活用とプライバシー保護を両立する次世代基盤の確立へ
EAGLYSとEmotionXは、本共同開発を通じて、秘密計算の社会実装を加速し、プライバシーとデータ利活用を両立する次世代のデータ活用基盤の確立に貢献していくとしています。これは、AI時代の新たなデータエコシステムを構築し、企業や組織がより安全かつ効率的にデータを活用できる未来を創り出すことを意味します。
この技術が広く普及すれば、個人は自分のデータが安全に保護されているという安心感のもと、より積極的にデータを提供できるようになるでしょう。企業は、プライバシー侵害のリスクを気にすることなく、より多くの高品質なデータをAIに学習させ、革新的なサービスや製品を生み出すことが可能になります。秘密計算AIは、まさにAIと人類が共存していく上で不可欠な技術であり、その実用化に向けた両社の取り組みは、今後の社会に大きな影響を与えることでしょう。
共同開発を推進する両社の紹介
EAGLYS株式会社について
EAGLYS株式会社は、東京都渋谷区に本社を置く企業です。AIと秘密計算を組み合わせたPrivate AIプラットフォームを提供し、産業データの活用を促進しています。同社は「世の中に眠るデータをつなぐハブとなり、集合知で社会をアップデートする」というビジョンのもと、顧客のAIおよびデータコラボレーションを支援しています。
- EAGLYS株式会社公式サイト: https://www.eaglys.co.jp
EmotionX株式会社について
EmotionX株式会社は、東京都港区に本社を置くスタートアップ企業です。キオクシア株式会社からカーブアウトして設立され、完全準同型暗号(FHE)の高速化技術を中核事業としています。プライバシークラウドおよびFHE Processing Unit(FPU)と呼ばれる専用ハードウェアの企画・開発を通じて、暗号化されたまま高度な計算を可能にする基盤技術の実装を目指しています。
- EmotionX株式会社公式サイト: https://www.emotionx.co.jp
まとめ:秘密計算AIが描く未来
EAGLYSとEmotionXによる今回の共同開発契約は、秘密計算AIの実用化に向けた大きな一歩と言えます。完全準同型暗号の計算負荷という長年の課題に対し、ソフトウェアとハードウェアの両面からアプローチすることで、その解決を目指しています。これにより、プライバシーを厳重に保護しながらも、AIによる高度なデータ分析や機械学習が現実的な速度で可能になる未来が、きっと訪れるでしょう。
両社の取り組みが成功すれば、金融、医療、製造業など、様々な分野でデータの安全な利活用が進み、これまでになかった新たな価値創造が期待されます。AI技術が社会に深く浸透する中で、データプライバシーとセキュリティは最も重要な要素の一つです。秘密計算AIの進化は、私たちに安心と利便性を両立させた、より豊かなデジタル社会をもたらす可能性を秘めていると言えるでしょう。今後の両社の開発動向に注目が集まります。

