AIの消費電力問題とアナログインメモリ計算の可能性
近年、人工知能(AI)の進化は目覚ましく、私たちの生活やビジネスに革新をもたらしています。しかし、AIモデルの複雑化に伴い、その処理に必要な消費電力が増大するという深刻な課題が浮上しています。特に、スマートフォンやIoTデバイスのような電力供給が限られた「エッジデバイス」でAIを動かす「エッジAI」の分野では、この消費電力の問題は喫緊の課題となっています。
この課題を解決する次世代のハードウェアとして注目されているのが、「アナログインメモリ計算」です。これは、データを記憶するメモリと計算を行うプロセッサを一体化させることで、データ転送に伴うエネルギー消費を大幅に削減しようとする技術です。デジタル形式ではなく、アナログ信号の形で計算を行うため、超低消費電力でのAI推論が期待されています。
アナログインメモリ計算の大きな壁:アナログ回路の「非理想的特性」
アナログインメモリ計算は非常に有望な技術ですが、その実用化には大きな課題がありました。それは、アナログ回路が持つ「非理想的特性」です。
デジタル回路は「0」と「1」で情報を扱うため、多少のノイズやばらつきがあっても情報が損なわれることはほとんどありません。しかし、アナログ回路は連続的な信号を扱うため、温度変化、製造ばらつき、ノイズといった様々な要因によって、設計通りの理想的な動作からずれてしまうことがあります。これらの「非理想的特性」は、AIの学習性能を低下させる原因となり、これまでは避けるべきもの、あるいは補正すべきものとされてきました。そのため、既存のAI学習アルゴリズムでは、こうしたアナログ回路特有の複雑な非線形特性を効率的に取り込むことが困難だったのです。
画期的な解決策:ODEベース学習手法の登場
この長年の課題に対し、酒見悠介氏(千葉工業大学 数理工学研究センター 上席研究員/東京大学国際高等研究所ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN) 連携研究者)らの研究チームは、画期的な解決策を開発しました。
彼らが開発したのは、アナログハードウェアの動作を「常微分方程式(ODE)」で記述し、それを直接学習させるという新しい手法です。常微分方程式とは、時間の経過とともに変化する物理現象を数学的に表現するための強力なツールです。この手法を用いることで、アナログ回路が持つ複雑で非線形な「非理想的特性」を、AIの学習アルゴリズムの中に直接組み込むことが可能になりました。

ODEでアナログ回路を「まるごと」学習する
これまでの学習手法では、まず理想的なデジタルモデルでAIを学習させ、その後、その学習済みのAIモデルをアナログハードウェアに「マッピング」するという2段階のアプローチが一般的でした。しかし、この方法では、アナログ回路特有の非理想的な挙動が学習プロセスに反映されにくく、性能の低下を招くことがありました。
一方、今回開発されたODEベース学習手法では、アナログ回路そのものの物理的な動作を常微分方程式でモデル化します。これにより、回路の持つノイズや非線形性といった非理想的特性も含めて、AIが直接「学習」できるようになります。例えるなら、理想的な設計図だけを見て学習するのではなく、実際に動いているアナログ回路の「癖」や「個性」も含めてAIが理解し、それを最大限に活かす方法を学ぶ、といったイメージです。
しかし、この物理モデルを直接学習させる方法は、非常に計算負荷が高く、実用的な規模のAIモデルを学習させることは難しいとされていました。
学習効率を1000倍向上させた「DSTD」とは?
ODEベース学習手法の計算負荷の高さという課題を克服するために、研究チームは「differentiable spike-time discretization (DSTD)」という新しい学習手法を開発しました。DSTDは、学習効率を従来の手法に比べて約1000倍も高めることに成功しました。
この大幅な効率向上により、これまで困難だった実用規模のAIモデル、具体的には8層の畳み込みニューラルネットワークの学習が可能になりました。これにより、より複雑なタスクに対応できるAIを、アナログインメモリ計算回路上で効率的に動作させることが現実味を帯びてきたのです。
驚きの発見:非理想的特性が性能を向上させる可能性
この研究で特に注目すべきは、学習の結果として明らかになった驚くべき発見です。
従来、学習性能を低下させる「非理想的」な要素と考えられていた実際のアナログ回路の複雑性が、DSTDを用いた学習によって、むしろ学習性能を高める場合があることが確認されたのです。これは、アナログ回路の設計常識を大きく覆す可能性を秘めています。
これまでは、アナログ回路の非理想的特性は「悪」とされ、徹底的に排除するか、補正する努力が重ねられてきました。しかし、この研究は、これらの特性をAIの学習プロセスに積極的に取り込むことで、回路の持つ本来の複雑性を「味方」に変え、より高性能なAIを実現できる可能性を示唆しています。この発見は、今後のアナログインメモリ計算回路の設計において、新たなパラダイムシフトをもたらすかもしれません。
実用化への道:回路設計とシミュレーションによる検証
今回の研究では、理論的な学習手法の開発だけでなく、その実用性を確認するための具体的なステップも踏み出されています。
研究チームは、開発した学習手法が実用的なアナログ回路で実際に機能するかどうかを検証するため、回路設計とそのシミュレーションも実施しました。これにより、提案手法が単なる理論上の成果に留まらず、実際のハードウェアでの有効性も裏付けられたことになります。この検証は、超低消費電力AIチップの実用化に向けた大きな一歩と言えるでしょう。
研究チームと今後の展望
この画期的な成果は、以下の研究者たちの共同研究によって実現しました。
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酒見 悠介氏 (千葉工業大学 数理工学研究センター 上席研究員/東京大学国際高等研究所ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN) 連携研究者)
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岡本 有司氏 (京都大学 大学院医学研究科 特定助教)
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森江 隆氏 (九州工業大学 大学院生命体工学研究科 特任教授・名誉教授)
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信川 創氏 (千葉工業大学 情報変革科学部 教授)
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細見 岳生氏 (日本電気株式会社 セキュアシステムプラットフォーム研究所 シニアプロフェッショナル)
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合原 一幸氏 (東京大学国際高等研究所ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN) エグゼクティブ・ディレクター/東京大学 特別教授・名誉教授/千葉工業大学 数理工学研究センター 主席研究員)
この研究成果は、2025年8月18日に査読付き国際学術雑誌「Advanced Intelligent Systems」で公開されました。今回の開発は、アナログインメモリ計算回路の設計常識を大きく覆し、超低消費電力で高性能なエッジAIの実現に向けた道を大きく開くものです。将来的には、バッテリー駆動の小型デバイスで高度なAI処理が可能になり、私たちの身の回りのあらゆるものがよりスマートになる可能性を秘めています。
詳細情報
この研究に関するさらに詳しい情報は、以下の千葉工業大学のプレスリリースをご覧ください。

